2012年8月8日水曜日

ちゃんと車を止められないリアル下手

信号待ちをする時、歩く速さ程度まで減速して、ブレーキを離し、残った距離はゆっくりと詰めるような操作をする車が前にいると、そのひと手間かかる停車に付き合わされるため、面倒に感じることがある。急なブレーキでカックンと停車することはむしろ追突のリスクがあるが、必要以上に時間をかける微速前進は、おもしろくもないし、たいくつだ。渋滞でもないのにノロノロとした前進にじっと我慢してついていき、いつ停車するか分からない前車から目を離すことができない。
なぜ信号待ちで停車するだけのことに、このように手間取るかというと、クセということもあるかもしれないが、最近は実際に下手なのではないかと思っている。狙った位置に停車する運転能力がないという意味だ。
考えてみて欲しい。時速40キロで走行していて、50メートル手前からブレーキをかけて狙った位置に普通にスッと停車するには、ブレーキの踏力を適切に操作しなければならない。さすがに踏力を一定に維持してぴったり狙った位置に停車させることは難しいだろうが、車速と残りの距離から感覚的に停車位置を予測しつつ、踏力を微妙に調節しながらおおよそ安定した減速率で停車させることは可能だ。
そんなこと当たり前だろと言われる方が大半であると思うが、それができない人が実在する可能性があるという話だ。
だから、実際の停車位置よりずっと前で止まりかける程に減速してから、残りの距離を微速でつめなければならないということが起こる。
その行為が、正しいか間違っているかという問題ではない。それ以前に、ちゃんと車を止められない。車を普通に停車させる能力を有していないということである。
信号待ちのノロノロ停車の原因はそれだけではないだろうが、そのような可能性もあるように思う。

じれったい動きをする車というのは、多くの場合、停車能力に起因していることがあるのではないだろうか。
右左折時の速度や、曲がった後の直線で、すぐに加速しないこと等にも、影響しているように思う。

なにもやたら速く行こうとばかりに、せっかちな運転をすることはない。信号待ちで手間のかかる停車を強いられる程度のことであれば、2回目以降の停車では対策できることもある。だが、現実に運転能力がないことが原因であることを認識しておくというのは、ものの見方も違ってくる。下手なことがわかっていれば、その車のそれ以外の行動にも注意を払うことができるようになる。

車を止められるということは、速く走れるとも、言い換えられる。
速く車を動かすには、アクセルを使うのであるから、一見止めることは関係ないことであるが、実際に速く走れるためには、ブレーキのコントロール能力が必要という、矛盾しているようなことである。
速く走るだけであれば、アクセルを踏むだけなので、力は必要ない。子供でも車を高速走行させられる。しかし、実際の道路で速く走るためには、いざという時に止められる裏付けがないとできない。少なくとも止められるという自信がなければ、速度を出せない。
無謀な速度の出し過ぎをすることや、無理をすることではなく、純粋に走れる速度というのは、ある程度、車の停車能力に比例することが予測できる。

2011年12月3日土曜日

自転車の運転マナーも悪い

特に指定がない場合や、子供、高齢者等の特別な場合を除いては、自転車は車道を走行することになっている。それでも幅2メートル以上の歩道では自転車の通行を認めていたが、先日、それも3メートル以上の歩道へと変更された。
また、悪質な自転車運転手にはイエローカードや、場合によっては交通切符を発行する等、取り締まりを強化しつつある。

自動車やバイクを運転する立場としては、自転車については、マナーだけでなく、実際に危険を感じることも少なくない。
交通量の多い道路に面した駐車場から出る場合に、右から来る車列の切れ目を待っているときなど、隙間ができたと思って発進すると、左から右側通行の自転車が来ているようなことがある。交通ルールのつじつまが合わなくなることによる危険性であり、そのような場合でも自転車はまさに危険が差し迫るまで回避しようとしない(回避しようとしない→減速しない→その理由は後述)。
歩道のある道路では、歩道上に障害物があったり、歩行者がいると、歩道を走行していた自転車が車道に飛び出してくることがある。その際、一切の後方確認をしないことも珍しくない。自転車にはミラーがないのはもちろんだが、どのみち目視のために振り返らなければならない。この振り返るという動作は、体を捻る動作であり、体力を使う。こうした運動となる動作は意識的に行おうとしなければできない。免許証が不要な自転車の場合、そのための訓練を受けていない。

体を捻ることができないということも関係しているが、自転車は極めて省力的な動きをする。
加速するのに体力を使うので、減速したがらない。一度止まってしまうと、再発進に大きな体力を使うことになる一時停止は絶望的にできない。ブレーキをかければ停止するが、再発進の労力を考えて心理的に停止しようとしない。つまり実質的にできないことと同意だ。
見通しの悪い小さな路地の交差点でも、まったく止まることなく飛び出してくるのが標準である。

ピスト自転車と呼ばれるブレーキのついていない自転車が最近流行っていた。外観を重視するファッションとしてブレーキをつけなかったり、外したりした自転車だ。そのような自転車では、格段に減速が難しい。減速が難しいというのはブレーキがないからというのは当然であるが、減速するのに体力を使うことが大きな元凶となる。減速するには、ペダルを逆方向に抑えつける力を加えることが必要になる。通常のブレーキならば手の握力とテコの原理もあって楽に止められるものが、回転しようとする車輪を妨害するような、言ってみれば人力エンジンブレーキみたいなことをしなければならない。減速するのに余計に体力を使うとなれば、減速することが潜在的に億劫になり、なるべく減速をやり過ごそうという心理が働くことは想像がつく。その結果、自らの走行の継続性を優先し、安全に対する配慮や、譲るという姿勢が消極的になる。

人は放っておくと楽をする生き物。必要に迫られるまではやろうとしない。それをどうにかするには調教するしかない。免許証を持つ自動車の運転者なんかの場合、例えば、バックするときに運転席窓を開けて後ろを見たり、助手席のシートに手をかけて後ろを振り返る動作をする。左折するときの巻き込みを防止のため左後方を目視する動作や、見通しの悪い交差点ではハンドルより前に顔を突き出して交差点の向こうをのぞこうとする動作をする。こうしたことは教習所で調教を受けているからできることだ。検定で確認をしなかったら、免許は取得できない。
そこで、自転車も免許制にしてはどうかという意見もありそうだが、猛反対がでるのは目に見えている。現実的とはいえない。

幅3メートル以上の歩道の走行を認めないことについて、街中で自転車の運転手にインタビューしているテレビのニュースを見た。言っていることがトンチンカンなことが多い。
「いきなり言われても困る」とか「歩道と白線の間の幅が狭い」とか。
もともと自転車は車道を走行するもの。それを今まで2メートル以上なら目をつむっていただけのことである。それに自転車が歩道を走行するときに、幅が2メートルか3メートルかなんて意識していないのが現実だ。もともと意識していないものを困りようがない。それから自転車は無理に路側帯を走行する必要はない。なんか自転車に対して偏見か先入観のようなものを持っている人がいるのではないだろうか。自転車を含む軽車両や二輪車、それから3輪や4輪以上の車両はすべて車両であり、車道を走行すればよい。
もし、自転車の立場に立って、何か因縁をつけるコメントを考えてみるなら
「今まで通りではあるが、自転車の走行できる範囲が少し狭くなるようで、不便になることも出てきそうだ」とかだろうか。
この2メートルから3メートル以上へ変更になることについては、基本的に自転車にとって不利な方向性であるから、ありがたいなんていう回答があるはずがなく、自転車を乗る人としては当然に文句を言うわけだが、それにしたって論理に筋が通っておらず、物事を理解しているとは思えない。
街中でのインタビューだったりしたので、よく考えた返答ではないだろうから、そこに突っ込みすぎるのはフェアではない。しかし、こうした自転車を特別視したような勘違いは多いように思う。

そして、このような勘違いが自動車側にもある。自動車の運転手が自転車を車両の仲間とみなさないことだ。確かに自転車はほとんどの状況で自動車より低速で、免許証の取得を必要としない。交通ルールも守られていないことが当たり前のようになっている。しかし、それらを理由として自転車を車道の邪魔者のようにとらえ、邪険にするのは相応とはいえない。
自転車のマナー、特に危険性の高いことについては、行政等から十分に指導してもらえることを望むし、自転車の運転手にも理解されることを願う。その一方で、自動車側も、自転車の立場を理解していかなければならない。

2010年11月9日火曜日

渋滞解消のためにメリハリのある前進を

メカニズム的に渋滞が早く解消するためには、渋滞先頭からの脱出を速やかにするとよい。渋滞最後尾に流入してくる量より、排出量を増やす作戦である。
到達する先に渋滞があると分かっているような場合は手前から速度を落としておき、渋滞への参加を遅らせるようにする。渋滞の先頭では前の車が加速していくのに合わせてなるべく早く加速するようにする。できれば二つ前の車の動きを視野に入れておくと行動を早められる。
これは、どこかの研究者の受け売りなので、おそらく正しい理屈だろう。

さて、定期的に前に進んだり停車したりを繰り返すほぼ停止に近いような渋滞に巻き込まれることがある。この時、前に進むのを何回にも分けて行われると、後ろについている車がその無意味な手間に付き合わされるのでいい迷惑であるというのは、このサイトで今までに何回も言っている。
具体的には10メートルの車間があったとして、まず最初に5メートル前に進んでいったん停車し、その2~3秒後に残りの5メートルを詰めるというようなことだ。それなら始めから一発で10メートルを詰めれば簡単なことである。
そうした車が前にいるとき、一度そんな目に遭わされると、2回目からも同じように手間のかかることに付き合わされるかというと、さすがに次からはついていかなくなる。前の車が進んでもしばらく放置しておき、あとからまとめて詰めたくなってくるのだ。
だが、前の車が進んでも後ろの車が付いてこないのでは、先の渋滞のメカニズムから考えると渋滞の解消にはあまり良くないことになりそうだ。いざ渋滞の先頭付近になっても前の車を信用できないので、すぐに加速しないからだ。

前に面倒くさい車がいても、後ろの車がいちいち詰めるという解決もあろうが、本当は前の車ができるだけ単純な前進をすることを求めたい。
さっと前に進み、早すぎず、遅すぎず、無用な加減速をせず一定の速度で前進して、適切な位置にピタッと止める。そんな動きをするようにすれば、後ろの車は前の車を信用できるようになり、ついていくのが楽になる。それがほんの僅かに渋滞解消に貢献できる・・・かどうかは分からないが。

2010年11月8日月曜日

思いつきでハンドルを切る前に一呼吸置いて

車を運転していて、左側にガソリンスタンドの入り口があるのが目に入って、そういえばガソリンがなくなりそうだから給油をしておこうと思い、左にハンドルを切ったとたん車の左側面にガシャーンとバイクが突っ込んでくるというのはありがちな話である。

ウインカーを出して車を道路の左端に寄せ、絶対にバイクが入れないところまで隙間を狭めておいてから、右にふくらむことなく左折してガソリンスタンドに入れば、こうした事故は起こらない。普段からそのようにしていても、ガソリンスタンドに入ることを突然思いついたのではそうできないことがある。できないのであれば、かなり慎重な運転が必要だ。

このケースで決定的にまずいのが突発的な行動ということだ。運転者も予定していない出来事なのだから他の交通は予測できるわけがない。

終始セカセカ、イライラした気持ちで運転しているとこうした危険が出てくる。
急にガソリンスタンドに入ることを思いついても、一呼吸置いて、よく確認してから行動するような余裕が欲しい。余裕というのはひとつには慌てず、日頃からの落ち着いた運転スタイルから生まれる。ハンドルをギュッと握り締めて、顔を近づけて前かがみに運転するのではなく、ハンドルは軽く持ち、気持ちとしてはシートにのけぞるようにするぐらいの気持ちで良い。通常時の自動車の運転というのは瞬発力や咄嗟の判断でするものではない。自動車は知能で運転するものであると理解し、冷静な判断で計画的に運転することである。一般道路の交通における運転がうまいというのは身体能力が高いという意味ではなく、頭が良いということである。計画性も知的活動のひとつだ。

もうひとつは、たとえ何か思いついても動じない強さである。ガソリンスタンドなんてものはひとつふたつ通りすぎても他にいくらでもある。翌日に延期してもいいし、延期しても問題ない余裕を持っておきたい。どうしてもと言うなら、先に進んでから安全なところでUターンしてきても良い。それでも目の前のガソリンスタンドに入りたいと言うなら、それ相応の注意深い運転を要する。その注意のためにもやはりまず始めに咄嗟の出来事に動じない強さが必要である。

2010年11月5日金曜日

プラスマイナスゼロ 譲られるのが当たり前ではない

信号待ちをする車の列に対して、横の路地から合流しようとしたり、店舗の駐車場から出てきて合流しようとする場合がある。こうした時、車列に隙間がないと当然入ることができない。だから、車列の中には隙間を空けたまま待ってくれる車がいることがある。こうした場合はスムーズに入ることができるが、そうでない場合は間隔が空いたり、入れようとする意思を持つ車が来るのを待つしかない。この時、積極的に隙間を作ろうとしないドライバーがいたとしたらそれは悪であろうか?・・・もちろん、何もわざわざ意地悪をすることはないが、相手が親切をすることを当然のことであると考えることも適切ではない。
人の優しさを当たり前だと考えると無用なストレスを生むことがある。それは思うような行動をしない車に対して腹を立てて、報復をしようとしたりすることにも発展する。

本来、何もしないのが当たり前で、そこがスタート地点、プラスマイナスゼロなのだ。それに加えて親切にされることは、あくまでプラスアルファの出来事である。
他人に親切にしようと励むのは人として立派なことであり、誰もがそうであることが望ましい。だが、一方で自分自信の望みのために他人に世話になることを当然のことであるかのように決めてかかることは独善的だ。

他人に親切にしなくて良いという意味ではない。むしろ、これは他人に対してどう対処すれば良いか示していて、反面教師とするべきである。
それならば、間に入りたい車がいたとして、どうするのが理想であるかは分かることであり、現に大抵の人はそうしているのである。

そのことを踏まえて、先の例のように間に入れないような場合があったとすれば、得てしてそうしなければならない何か理由があるものである。塞いでいる車は仮に前方に空間があっても、死角となる位置に通行人がいて前に進めないというようなこともありえる。