2010年11月9日火曜日

渋滞解消のためにメリハリのある前進を

メカニズム的に渋滞が早く解消するためには、渋滞先頭からの脱出を速やかにするとよい。渋滞最後尾に流入してくる量より、排出量を増やす作戦である。
到達する先に渋滞があると分かっているような場合は手前から速度を落としておき、渋滞への参加を遅らせるようにする。渋滞の先頭では前の車が加速していくのに合わせてなるべく早く加速するようにする。できれば二つ前の車の動きを視野に入れておくと行動を早められる。
これは、どこかの研究者の受け売りなので、おそらく正しい理屈だろう。

さて、定期的に前に進んだり停車したりを繰り返すほぼ停止に近いような渋滞に巻き込まれることがある。この時、前に進むのを何回にも分けて行われると、後ろについている車がその無意味な手間に付き合わされるのでいい迷惑であるというのは、このサイトで今までに何回も言っている。
具体的には10メートルの車間があったとして、まず最初に5メートル前に進んでいったん停車し、その2~3秒後に残りの5メートルを詰めるというようなことだ。それなら始めから一発で10メートルを詰めれば簡単なことである。
そうした車が前にいるとき、一度そんな目に遭わされると、2回目からも同じように手間のかかることに付き合わされるかというと、さすがに次からはついていかなくなる。前の車が進んでもしばらく放置しておき、あとからまとめて詰めたくなってくるのだ。
だが、前の車が進んでも後ろの車が付いてこないのでは、先の渋滞のメカニズムから考えると渋滞の解消にはあまり良くないことになりそうだ。いざ渋滞の先頭付近になっても前の車を信用できないので、すぐに加速しないからだ。

前に面倒くさい車がいても、後ろの車がいちいち詰めるという解決もあろうが、本当は前の車ができるだけ単純な前進をすることを求めたい。
さっと前に進み、早すぎず、遅すぎず、無用な加減速をせず一定の速度で前進して、適切な位置にピタッと止める。そんな動きをするようにすれば、後ろの車は前の車を信用できるようになり、ついていくのが楽になる。それがほんの僅かに渋滞解消に貢献できる・・・かどうかは分からないが。

2010年11月8日月曜日

思いつきでハンドルを切る前に一呼吸置いて

車を運転していて、左側にガソリンスタンドの入り口があるのが目に入って、そういえばガソリンがなくなりそうだから給油をしておこうと思い、左にハンドルを切ったとたん車の左側面にガシャーンとバイクが突っ込んでくるというのはありがちな話である。

ウインカーを出して車を道路の左端に寄せ、絶対にバイクが入れないところまで隙間を狭めておいてから、右にふくらむことなく左折してガソリンスタンドに入れば、こうした事故は起こらない。普段からそのようにしていても、ガソリンスタンドに入ることを突然思いついたのではそうできないことがある。できないのであれば、かなり慎重な運転が必要だ。

このケースで決定的にまずいのが突発的な行動ということだ。運転者も予定していない出来事なのだから他の交通は予測できるわけがない。

終始セカセカ、イライラした気持ちで運転しているとこうした危険が出てくる。
急にガソリンスタンドに入ることを思いついても、一呼吸置いて、よく確認してから行動するような余裕が欲しい。余裕というのはひとつには慌てず、日頃からの落ち着いた運転スタイルから生まれる。ハンドルをギュッと握り締めて、顔を近づけて前かがみに運転するのではなく、ハンドルは軽く持ち、気持ちとしてはシートにのけぞるようにするぐらいの気持ちで良い。通常時の自動車の運転というのは瞬発力や咄嗟の判断でするものではない。自動車は知能で運転するものであると理解し、冷静な判断で計画的に運転することである。一般道路の交通における運転がうまいというのは身体能力が高いという意味ではなく、頭が良いということである。計画性も知的活動のひとつだ。

もうひとつは、たとえ何か思いついても動じない強さである。ガソリンスタンドなんてものはひとつふたつ通りすぎても他にいくらでもある。翌日に延期してもいいし、延期しても問題ない余裕を持っておきたい。どうしてもと言うなら、先に進んでから安全なところでUターンしてきても良い。それでも目の前のガソリンスタンドに入りたいと言うなら、それ相応の注意深い運転を要する。その注意のためにもやはりまず始めに咄嗟の出来事に動じない強さが必要である。

2010年11月5日金曜日

プラスマイナスゼロ 譲られるのが当たり前ではない

信号待ちをする車の列に対して、横の路地から合流しようとしたり、店舗の駐車場から出てきて合流しようとする場合がある。こうした時、車列に隙間がないと当然入ることができない。だから、車列の中には隙間を空けたまま待ってくれる車がいることがある。こうした場合はスムーズに入ることができるが、そうでない場合は間隔が空いたり、入れようとする意思を持つ車が来るのを待つしかない。この時、積極的に隙間を作ろうとしないドライバーがいたとしたらそれは悪であろうか?・・・もちろん、何もわざわざ意地悪をすることはないが、相手が親切をすることを当然のことであると考えることも適切ではない。
人の優しさを当たり前だと考えると無用なストレスを生むことがある。それは思うような行動をしない車に対して腹を立てて、報復をしようとしたりすることにも発展する。

本来、何もしないのが当たり前で、そこがスタート地点、プラスマイナスゼロなのだ。それに加えて親切にされることは、あくまでプラスアルファの出来事である。
他人に親切にしようと励むのは人として立派なことであり、誰もがそうであることが望ましい。だが、一方で自分自信の望みのために他人に世話になることを当然のことであるかのように決めてかかることは独善的だ。

他人に親切にしなくて良いという意味ではない。むしろ、これは他人に対してどう対処すれば良いか示していて、反面教師とするべきである。
それならば、間に入りたい車がいたとして、どうするのが理想であるかは分かることであり、現に大抵の人はそうしているのである。

そのことを踏まえて、先の例のように間に入れないような場合があったとすれば、得てしてそうしなければならない何か理由があるものである。塞いでいる車は仮に前方に空間があっても、死角となる位置に通行人がいて前に進めないというようなこともありえる。