2010年10月12日火曜日

手動車が自動車に変わるとき

“自動”車といっても自動車は自動で走ってくれるわけではなく手動で運転するものだ。そういう意味で言うと自動車ではなく“手動”車が正しいのではないか。というようなつまらない突っ込みはともかく、最近のニュースでgoogleが自動で運転する本当の自動車を研究しているらしいというのがあった。プリウスを改造した実験車で、地図とセンサーを組み合わせて交通状況を把握しながらコンピュータ制御によって自動走行するらしい。

自動運転というと、人間が自動車を運転するスタイルをそのままロボットに置き換えたイメージで考える人がいるかもしれない。たとえばカメラで捕らえた映像を解析して、周囲の状況を把握しながら自動運転するようなイメージだ。しかし、そうしたやり方はかなり難しいのではないかと思う。もっと違う発想も必要なように思う。
例えば、道なりに走る方法としては、GPSに精度と信頼性があれば、不可能ではないかもしれない。また地面に磁気を利用した目印を埋め込むような方法も考えられるだろう。速度やルートの制御は周囲を見て行うのではなく、他の交通も含めて指令センターで集中管理されている情報から最適な選択が行われる。目の前に他の車が見えるから減速するのではなく、指令センターで前方に交通があることを把握していて、それらの交通を踏まえた計算結果の元、速度の制御を指令され、自動的に速度が変化するわけである。
すべての車が完全な自動運転になった世界では、交差点ではコンピュータによって計算されたタイミングで車がすれ違うことができるから、もはや信号機は必要なくなる。そればかりか視覚で運転しているのでなければ道路標識や道路標示すら不要だ。
人間はただ目的地を入力して寝ていれば勝手に車がそこまで行ってくれる。夢のような話だ。

実際は自動運転可能ルートを外れた場所では手動運転が必要になるだろうし、人間が運転する自動車が混在していたり、バイクがあったり、歩行者や自転車のこともある。技術的なこと以外にも法的な問題や様々なことがあってハードルは高い。

なぜ、このような自動運転に興味を持つかというと、運転する煩わしさから開放されるからである。
自動車の運転そのものが楽しいという人もいるだろうが、何か目的を持って移動している人には、運転行為自体は必ずしも重要ではない。
もちろん、運転の煩わしさを感じる理由は、運転マナーの悪さが原因だ。
だから、そうしたストレスを感じない世界が魅力的に感じたりする。

0 件のコメント:

コメントを投稿